日 下 新 池(天女が池)
資料提供 孔舎衙校区自治連合会 |
連合会長 酒井 秀和 |
今から近所の友達と一緒にこの池で遊び、泳ぎを覚えました。俺もだ、私もやと言わ50数年前、小学校低学年の頃私は れるに方々もたくさんおられるでしょう。さらに遡ること40年、大正9年この地に温泉浴場を造ることになったのです。その 後、紆余曲折を経て大正10年2月「設立当時の趣旨に従ひ温泉浴場其他の建築に着手」され、10年8月上旬に温泉浴場 本館開業に至ったのです。 大阪府中河内郡孔舎衙村大字日下字天羅山は大阪電気軌道日下停留所北約1丁という地にあったので大軌と連携し 納涼余興部を開始し、一般浴客及び遊覧客集客を図ったのです。その後、冬休みに入るに随い浴客漸減になり、旅館料 理業他を経営するようなったのです。永楽館という料理旅館、少女歌劇団の舞台もあり、子供向けにはミニ動物園、池に は貸ボートを漕ぐ人、池の南側には乗馬クラブ、乗馬とはいっても手綱を持った農夫が引く馬に5〜6分ほど乗り、さほど 広くない階段状の畑の中をぐるぐる廻るだけといった施設・・・それでも娯楽の少なかった当時としては珍しくもあり大阪か ら大軌に乗って大勢の行楽客が日下遊園地へと集まって来たと言われています。しかし大正14年の「大軌電車沿線案 内」には、わしお駅付近に煙を上げる温泉場と桜に囲まれた遊園の絵が描かれているものの「日下納涼場」「日下温泉」 の表示は一切ありません。昭和2年大軌側の直営施設拡充に伴う提携の消極化を反映していると思われます。これ以 降、わしお駅の付近には「日下貝塚」しか表示されず「日下温泉」等を思わせる表示は一切見当たらないため衰微ないし 収束をうかがわせます。帰らぬ人となった私の大恩ある人の手記にこの日下遊園地の事が書かれてあります。 夏ともなれば「日下の納涼」と呼び周囲にはいろとりどりの電飾が夜空に光を放ち、広場の外側には露天の店が軒を並 べる。急行列車も臨時停車するほど大勢の人が集まり、夏の風物詩を奏でていた。その間隙を縫ってあちこちから高い 柱の上に取り付けてあるサーチライト(前照灯)が広場を照らし、真昼のような明るさを醸し出していた電燈に照らし出さ れている北側の坂道を下って行くと新池がある。随分広い池でボートが浮かび、若い男女が嬉々として涼を楽しんでい た。池の西側の道路にはこれまた数知れぬ露天が並び、カーバイト灯の臭いが鼻をついたのを覚えている。北側山裾に は日下温泉の大きな赤い洋館がそびえ立っていた。週に何回か少女歌劇団が出演しあでやかなダンスを見せてくれた。 幼い少年であったが美しい女性が半裸の姿で踊るのを楽しく眺めた。毎週、土、日には池の東側に「仕掛け花火」が装 置される。西側に黒山のように人が集まる頃に点火される。シダレ柳、ナイアガラの滝、火車などの火炎が池に落ちる。 それが水面に映し出されて、一段と美しさを演出していた。映画もなく、遊ぶ所のない土地の人は、土、日を待ち焦がれ ていた。 『石切駅』からは百m余りのトンネルをくぐり抜けるとすぐに『わしお駅』である。電車賃を節約するためか、電車に乗る価 値がなかったのか村の人たちは坊主山を通り、駅近くの急坂を登って行った。時折出くわす蝮に細心の注意を払い、また 狐にも気をつかっていた。グループの先頭に立って行くのは最も勇気のある者とされていた。細い竹で道先をたたきなが ら眼前に展開する花火を、歌劇を見んものと汗だくになって先を急ぐのである。我々に大きな楽しみを与えてくれていた 日下温泉も、大軌電車の営業方針で菖蒲池へ移ると広場は住宅地に変わり、新池の北側にそびえていた立派な温泉も いつのまにか取り除かれた。そして栄華を誇っていた日下遊園地は跡形もなく無くなってしまった。わずか5〜6年間繁栄 の「日下温泉・日下遊園地」・・・つわものどもが夢のあと・・・孔舎衙校区の人々にとっては未来永劫語り継がれることで しょう。 |
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